ポップ物語 ポップとオリンピック

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グレッグ・ポポヴィッチ

誰もがグレッグ・ポポヴィッチの成功の秘訣を知りたいだろう。もしかしたら、すでにそのエッセンスを見つけた人もいるかもしれない。海外の選手をドラフトし、コーナー3を撃ち、守備を強調し、ボールをシェアし、レポーターをイジめる。

でも、あなたは彼の「真実」を知らない。永遠に知り得ないのかもしれない。なぜなら、あなたは彼が歩んできた道を知らないからだ。忍耐がなく、もっと大きな役割が欲しいと不満を言ってきたエア・フォースの士官学校の生徒が、なぜ規律とチーム力を要求するようになったのだろうか。どのようにして、オリンピックのアメリカ代表選考から政治的に落とされたのか。どうして、2008年のドリーム・チームをコーチする機会を潰されたのか。どのようにして、スパーズのコーチになるチャンスを2回も逃したのか。どうして、やっとスパーズのヘッドコーチになったにも関わらず、週末にはスーパーの駐車場でフットボール好きなファン達に無料のウィンナーを配り歩いてバスケを盛り上げようとしたのか。

グレッグ・ポポヴィッチと働いた事がある選手達や、コーチ達、エグゼクティブ達に話を聞くと、全員が声を揃えてそれら全てが今の彼をつくったのだと言う。

ポッポヴィッチにその事を聞くと答えてくれない。

ポップ:「わたしの後悔はそれらと何も関係がありません。後悔があるとしたら、優勝するチャンスがあったのに出来なかった事です」

ポップは昔の失望を蛇の抜け殻のように削ぎ落としてきた。しかし、勘違いしてはいけない。グレッグ・ポポヴィッチにとって、2020年のオリンピックでUSA代表ヘッドコーチに就任した事は、彼にとってはとても大きな業績なのだ。ポップは、オリンピックのプログラムを仕切り、短い時間でスパースター達の連携を確立し、すばらしい結果を残すだろう。

Team USAが世界で成功するためには、選手達のエゴを取り除かなければいけない。ポップが創りあげてきたサンアントニオ・スパーズの結束力を見ればわかるように、彼をヘッドコーチへと招聘する事は必然とすら思われていた。元スパーズのアシスタント・コーチだったアルヴィン・ジェントリーは言う。

ジェントリー:「もしあなたが、ポップのここまでの道のりが簡単なものだと思っていたら、それは彼が歩んできた物語を知らないからでしょう」

アダ名は「ポポ」

ポポは、インディアナのメリルヴィル・ハイスクールでガードとしてプレーしていた。アグレッシブで、脚が長いが背は小さく、茶色の髪に少年のような耳をしていた。そして彼は早くバスケがうまくなりたかった。

彼のせっかちさは、大学のエア・フォース・アカデミーのシステムにはフィットしなかった。そこではみんなが順番待ちをしなければいけない。元チームメイトのデイヴ・カパスカはアカデミーをリーダーシップのラボだと言った。

カパスカ:「最初の年で、言われた事や誰かに着いていく事を学びます。その後に、良いリーダーになる術を学んでいくのです。」

ポポにとって、リーダーシップの方は簡単だった。彼は個性に恵まれていたのだ。でも他の誰かについて行くだって?その考えは、ポポにとって問題だった。自分よりも上手く出来ない人になぜついて行かなければいけないのか?元エア・フォースのアシスタント・コーチで大学1年と2年でポップを教えていたハンク・イーガンは、それはポップにとって解決できない問題だったと語った(イーガンはポップの元でアシスタント・ヘッドコーチになる)。

イーガン:「彼は普通の若者でした。自分の重い通りに行かないと荒れてしまいました」

士官学校の生徒たちは、あまり時間に余裕がない。特に1年生の時は時間がなかった。しかし、イーガンによると、ポポはどうにか時間をやりくりして毎日ジムに来ていた。バランスを改善するためにゴムバンドのドリルをしていた。電気を消して、暗闇でドリブルの練習した。彼は守備とタフさを誇りにしていた。

ポポは、チームメイトの集中力がなくなると厳しく罰した。彼は大きくて強い相手にも臆さなかった。

スピアー:「彼は、目が合った選手には、やっちまうぞ、と言うような男だった」

ジョー・クレイムボーグがアカデミーに来る頃には、ポポはすでに上級生になっていた。クレイムボーグによると、同僚達は新入生をいびるのを喜んでやっていたが、ポポは新入生たちを笑わせる方に一生懸命だった。

ポポはトレーナーのジム・コンボイと練習するのが好きだった。ポポはトレーニングのテーブルにドスンと座り、「ゲイが軍隊に入隊できるようになったら素晴らしいね」などとコンサバなコンボイの気に触る事を言う事を喜びとしていた。その後、ポポヴィッチがエア・フォースのアシスタントになった時、遠征ではコンボイと一緒の部屋になった。その頃はおもしろい事になっていて、ポポはコンボイの娘のエリンとつき合っていた。そして、後に彼らは結婚する事になる。ポポヴィッチはスピアー(エア・フォースのヘッドコーチ)のお気に入りになり、4年生になったポポをキャプテンに指名した。ポポは、平均14.3点を取り得点王になった。

ポップと嫁のエリン

スピアーは、ディーン・スミスと仲が良く、夏になるといつも家族でスミスのバスケットボール・キャンプへ行っていた。ある夏、スピアーの家族はスミスの新しい選手を紹介された。ラリー・ブラウンだった。ローファーに靴下を履かないスタイルで、キャンパスで最もクールな男だった。

エア・フォース卒業

1970年にグレッグ・ポポヴィッチはソビエト連邦専攻の学位を取得し、US Armed Forcesのバスケットボールチームに加わった。東欧とソビエトをツアーして回り、コーチ達にもったいぶったロシア語の政治用語を教えていた。そして、1972年にはチームをAAU優勝に導いた。

オリンピックのトライアルがエア・フォース・アカデミーで開かれた。1972年のUSオリンピック協会の選考委員に任命されたジャック・ハーロンJr.は、ポポヴィッチがその選考会に招待されるように根回しした。

ハーロンはエア・フォース・バスケットボールチームのアシスタント兼リクルーティング・コーディネーターとして1年程働いていた。ポポヴィッチは海外でのパフォーマンスで大きな賞賛を得ていたが、テレビや雑誌に乗るような事はなかった。ハーロンは言った。「彼を招待するのは戦いのようだった」。

その頃のオリンピックは、AAU、NAIA、短大、Armed Force、NCAAに参加している短大や大学でプレーしている選手から選考されていた。候補選手達は、10~12人のグループに分けられ、それぞれにコーチを与えられた。ポポヴィッチはインディアナのボビー・ナイト・コーチのグループに入り、チームメイトにはフォワードのボビー・ジョーンズがいた。

ジョーンズはポポヴィッチがそのグループにいたのは知っていたが、彼のプレーを覚えてはいなかった。ポポヴィッチは.577のシューティング%で他の誰よりも良いプレーをしていたにも関わらずだ。ジョーンズが覚えている事と言えば、トライアルの最後のスクリメイジで、ナイトが、「この中から2人しかオリンピックに選ばれないので、他の選手達は2人にボールを集めて選ばれやすくしろ」と言っていた事だった。

ジョーンズ:「その2人とは、ケヴィン・ジョイスとわたしでした。コーチがそんなにも正直に物を言った事を聞いた事がなかった。グレッグや他の選手達がどう思ったかはわかりません」

ハーロンは他の候補者たちが得点を重ねている中で、ポポヴィッチの存在感が薄れているのを気にしていた。「グレッグはもっと目立つ事ができたはずです」ハーロンは言った。「でも彼はイバの言う通りにプレーしていました。それが結果的に良く無かったのでしょうけれど」

ハーロンはオリンピック選考会議のすべてに出席し、ポポヴィッチはいつも最終候補の14~16選手の中に残っていた。しかし、最終選考の投票日、今までの選考会議に1度も出席していないメンバーが現れたので、ハーロンはなぜ彼らがここにいるか問い詰めた。彼らは、「わたし達の選手を選考するために来た」と言った。

オリンピックのアメリカ代表選考プロセスは、あっという間にベストな選手を選ぶ事ではなく、勢力闘争になった。最終選考にポポヴィッチが残ることはなかった。

ハーロン:「50年この事を苛立だしく思ってきました。グレッグは最終選考に残るべきだったのです」

ラリー・ブラウンはそのトライアウトに呼ばれており、ポポヴィチのガッツに驚いた。そこでブラウンはポポヴィッチを、自分がコーチしていたデンバーのABAチームのトライアウトに招待する事にした。ブラウンは言った。「ポップは凄くタフで粘り強い選手でした。今でいうと、デラヴェドーヴァのような感じですね。でも(ポップは)もっとアスレチックだった。でも他にも素晴らしい選手が何人もいました」ポポヴィッチはこのトライアウトでもカットされている。

そのトライアウトに参加した選手の中で、未来にNBAのコーチになった選手が4人いた。ダグ・コリンズはその内の1人だった。他の2人は、マイク・ダントーニとジョージ・カールだった。コリンズは、その選考プロセスが政治的だったと語った。コリンズは自分の事を1番優秀なガードだと思っていたのだが、練習中にセルティクスのためにスカウティングをしていたトミー・ヘインソーンと衝突してしまった時、ヘインソーンはコリンズに、「みんなはお前を選ばないだろう。とても政治的なんだ。だれかお前のために戦ってくれる人を探した方がいい」と言ったのを聞いて、焦った。
コリンズは、自分がプレーしていたイリノイ・ステートのコーチだったウィル・ロビンソンに電話をした。ロビンソンはすぐにコロラドに飛んで、コリンズのためにいろいろな人を説得してまわった。コリンズはチームに選ばれた。

イーガンは言った。「誰も後ろ盾がいなかったポポヴィッチは苛立ち、怒っていました。チームに選ばれなかったので、みんなが守備への意識がない事を嘆いていました。」「彼は有名な大学選手達と争っていたのです。それは厳しい戦いでした。いま、振り返れば、それが彼にバスケに対する本当のモチベーションを与えたのではないでしょうか。そして、それが理由で、有名ではないけれど、ハングリー精神がある選手に惹かれる理由なのではないでしょうか」

そのような選手の中には、守備の魔術師、ブルース・ボーウェンも入っている。ボーウェンの背番号は、2012年にポポヴィッチによって永久欠番になった。キャリアを通じて平均6得点しかとらなかったにも関わらずだ。

オリンピックの経験から44年後、ポポヴィッチは当時のプロセスについて聞かれると苛立つ。「わたしがその事について話をした事はない。委員会はオリンピックで正しい選手を選んだ。わたしは、それしか言った事がない」

しかし、スパーズでの親友でもあり、同僚であるR.C.ブフォードは言う。「彼にとっては腹を蹴られたような感覚だったでしょう。その事は一生忘れないでしょう」

ポポヴィッチコーチのはじまり

1979年にディビジョン3のポモナ・プリッザーのヘッドコーチに就任した時、ポップは学校にアカデミックなカルチャーをつくるのに熱中した。1986年にポポヴィッチが長期休暇を取った時、スピアーがノールカロライナのディーン・スミスの元で3ヶ月アシスタントとして働く事をアレンジしてくれた。クールで靴下を履かないラリー・ブラウンとの3ヶ月だった。

スミスのアシスタントだったブラウンは、未来のバスケットを担う優秀な人物を集めていた。ジェントリー、ビル・ベイノ、未来のカンザスコーチのビル・セルフ、そしてR.C.ブフォードという男だ。

ポポヴィッチとブフォードのコンビは興味深い。ロバート・カントベリー・ブフォード(R.C.ブフォード)は裕福な家族の出で、ブランド物のサングラスをかけ、BMWに乗り、ローレンスで最も高いゴルフコースの隣にあるコンドに住んでいた。ジェントリーによると、ブフォードはラリー・ブラウンよりも良い家に住んでいたそうだ。

ポポヴィッチは毎日カンザス・シティーからローレンスまでクルマで通っていた。カンザス・シティーではエア・フォース時代の友人のマイク・シエセンのソファーを借りて寝泊まりしていた。ポポヴィッチは古くて長過ぎてガレージに入らない4ドアセダンに乗っていた。深夜遅くの試合の後や、悪天候になった時にはR.C.の家に泊まっていた。

ポポヴィッチとブフォードは真逆のパーソナリティーを持っていた。ブフォードは内向的で、ポポヴィッチは皮肉屋だった。しかし、2人は固定概念に捕われない考えをする事は一緒だった。2人は戦術や選手のマネジメントのフィロソフィーについて語り合った。

ブフォードは言った。「毎日がバスケ大学院の研究のようだった」

1988年に遊牧民のブラウンがスパーズのヘッドコーチに就任した時、彼はブフォードとポポヴィッチをスタッフに招聘した。その時、ポップは2つのスポーツコートを持っていた。ひとつはアカデミーからの物、もうひとつはハウンドストゥース柄の肘当てされたブレザーだった。はじめての試合でポップはハウンドストゥース柄のコートを選んだが、ドライクリーニングのタグを取り忘れてしまっていた。

ラリーは試合の事よりも、そのタグをどうやって取るかに夢中になっていた。ブフォードは笑いながら言った。「こうやってNBAの試合に臨んでいたんです。」

ブラウンによれば、ポポヴィッチが住んでいたサンアントニオのアパートはもの凄く質素だった。ポップが持っていたものはベッドとソファーとイスだけだった。その他には何も持っていなかった。しかし、そんな事をポポヴィッチは気にしていなかった。ポポヴィッチは出来るだけブラウンから学ぼうとしていた。

ブラウンは、ジョギングによってリラックスしたスタッフ達が効率よくアイディアをシェアするようになる事を発見した。ブラウンは、ポップから刺激的なオフェンスや守備のスキームやクリエイティブなアウトバウンドプレーのアイディアを必要としていなかった。ヘッドコーチはアシスタントのアイディアを取り入れたりもするが、ブラウンはポップとR.C.から「真実」を言って欲しかった。

ブラウンは、選手を解雇する事に疲弊していて、よく2人のアシスタントにその汚い仕事を押し付けた。ブフォードはクリスマスの翌朝、レジー・ウィリアムスに解雇を告げなければいけなかった。1991年、クジ引きで負けたポポヴィッチは、デヴィット・ロビンソンの結婚式の付添人を終えたばかりのアヴェリー・ジョンソンに解雇を言い渡さなければいけなかった。ジョンソンは言った。「ポップは電話でブラウンが隣にいると伝えた上で、悪いニュースがあり、わたしを解雇しなければいけない、そして良いニュースは、わたしがNBAに残れると言いました。」その1時間後、ジョンソンが住んでいたコンドの警備員から連絡が入り、ポポヴィッチがゲートに来ていると知らせてくれた。ジョンソンの妻はポップに会いたくないと言ったが、ジョンソンはポップを家に上げた。

ジョンソン:「ポップは悲しみに打ちひしがれていました。わたしがどれだけ努力していたか知っていましたから」

1991-92シーズンの38試合目、ブフォードとポップがまだスパーズのアシスタントだった時、ブラウンは突然チームを去った。オーナーのレッド・マコームスは、21勝17敗のスタートを切ったブラウンが契約の打切りを頼んだと発表した。ブフォードは友人のポップがイントリム・ヘッドコーチになる事を期待していたが、GMのボブ・バスは自分自身がヘッドコーチになる事を決めた。

ポップとブフォードはスパーズに残ったが、彼らは残された時間が少ないと知っていた。なぜなら、シーズンの最後の日にUNLVのコーチのジェリー・カーカニアンがチームのバスに乗ってきたからだ。ポップな何も言わないでうなだれていた。

1992-93シーズン、スパーズのヘッドコーチに自分ではなく、カーカニアンが就任した事を聞かれると、ポップは「フィルムの仕事をオファーされたのは興味深かったね」と語った。

カーカニアンはたった29試合で解雇された。その時ポップはもうスパーズにはいなかった。

ポップ:「レッド・マコームスは正しい決定をしましたよ。わたしはまだ(ヘッドコーチになる)器ではありませんでした」

もしポップがヘッドコーチになっていたら、ゴールデンステートでヘッドコーチを務めるバスケの天才、ドン・ネルソンの元で働く事はなかっただろう。ネルソンは、当時のバスケでは珍しいポイント・フォワードの起用や、スリー・ガード・ラインアップのパイオニアとして有名で、スモールボールのずっと前からスモールボールをやっていた異端児だった。フロントラインの選手をバスケットから離してミスマッチを誘い、フロアを広げ、最初にハック・ア・シャックを導入した。

ネルソンがポポヴィッチを雇った時、ネルソンはスター選手のクリス・ウェバーと全く口を聞いていなかった。ポポヴィッチが2人の間にはいって話をしていた。ポップの仕事はウェバーに厳しい真実を伝える役目だった。ネリーは言った。「ポップは優秀でした。クリスに、バカな事をやってないで、もっと大人になれと言っていました。ウェバーが人の聞かなかったのは残念でしたけどね。彼は35歳になるまでそれが理解できなかったようですが、その頃はもう手遅れですよね」

90年のはじめにポップがやっとヘッドコーチになった時、アヴェリー・ジョンソンは再度ポップと同じチームに入った。スパーズがモデル・フランチャイズになるずっと前の話だ。ジョンソンとポポヴィッチはスーパーの駐車場にポータブルのバスケットゴールを設置して、そこでホットドックを焼いて無料で配り、子ども達にバスケの魅力を知ってもらおうとしたりしていた。

ある日、ポポヴィッチがジョンソンをフィルムルームに引っぱっていき、アルセンチン人でやせた鷲鼻のハイスクール・バスケ選手の荒れた映像を見せた。ポップはジョンソンに興奮して、「観たか?」と聞いた。「彼をドラフトして海外にしばらく隠しておくんだ」それがマヌ・ジノビリだった。

ポポヴィッチの「真実」

グレッグ・ポポヴィッチは「真実」だけにしか興味がない。2012年にパティ・ミルズがスパーズと契約した時、ポポヴィッチはミルズに太っていると伝えた。そして、ポポヴィッチはローカル・メディアにも同じ事を言った。ミルズは、「コーチがそう言ったなら、わたしはそうなんでしょう」おかげでミルズは自身の若い人生の中で1番の素晴らしいシェイプをつくり、サンアントニオの信頼できるセカンドチーム・プレーヤーになった。2014年の6月3日、マイアミ・ヒートとのNBAファイナルの第一戦目の前に、ポポヴィッチはチームをフィルムルームに集めた。ミルズはドウェイン・ウェイドのビデオを見るのかと思ったが、スクリーンに映し出されたのは、オーストラリアの原住民の人権のために戦っている活動家のエディー・マオの顔だった。オーストラリアの原住民であるミルズは感動し、涙を流した。

ミルズ:「ポップがあんな状況でそれをやったのはかなり衝撃的でした。ポップがエディー・マボの事を知っているとは思いませんでした」

アヴァリー・ジョンソンの「真実」の瞬間は1998年だった。ポップはチームに、今まで見てきた選手の中でジョンソンが1番守備が下手な選手だと言った。ポップは、ジョンソンがロング・リバウンドを取ろうともしなかったプレーや、ルーズボールを追おうともしなかったプレーのビデオを流した。ポポヴィッチは静かに、「もしお前の守備がこのままなら、わたしたちは勝てない」と言った。その1年後の1999年、ポップとジョンソンは優勝した。

元スパーズのアシスタントのモンティー・ウィリアムズは、妻のイングリットを事故で亡くし悲しみにくれていた。ウィリアムズは、これからどうやってバスケと関わっていくか、どうやって5人の子どもたちを育てていくか悩んでいた。ポポヴィッチは、2004-05シーズンしかスパーズにいなかったウィリアムスに仕事をオファーした。好きなポジションで、いつでも辞めてもいいという条件で。

2002年に元アシスタントのマイク・ブラウンが離婚した時、子ども達は母と共にコロラドに引っ越してしまった。ブラウンの姉が2人の息子達をサンアントニオまで連れてきてブラウンを訪ねていた時の事だ。帰るために空港にいかなければいけない時間になると、息子たちが泣きわめいてしまった。ブルズ戦の対策を準備していたブラウンは、ポップに電話して少しだけ飛行機に遅れると伝えた。ポポヴィッチは、「もう来るな」と吠えた。ブラウンは、「大丈夫です。姉がついてますから」と答えた。ポップは、「もし飛行機に乗ってきたら首だ」と言って電話をきった。ブラウンはサンアントニオに残り、チームが帰ってくる間の2日間息子達と過ごした。ポポヴィッチがロードから戻ってきた時、ブラウンに優先次項について厳しく指導した。メッセージは、「家族が第一、バスケットボールはその次」だった。

ジェントリーがはじめてヘッドコーチに就任した時、ポップは電話で、「コーチの全員が審判を嫌っている。感情をもっとコントロールするべきだ」とアドバイスをした。長年のアシスタントのマイク・ブデンホルザーがアトランタ・ホークスのヘッドコーチに就任した時、ポップは、「その顔をなんとかしろ、みんなに悪い印象を与える」とアドバイスした。

バスケに熱心なブデンホルザーは、ポポヴィッチを新しいアイディアで刺激してしまう傾向がある。ブデンホルザーは、「ポップはいつも黙れと言うんです。バド、もういい。それを聞くのはうんざりだ、って」「みんながポポヴィッチは本当に気難しいのかと聞いてきますが、彼はとても良い人だと教えてあげます。彼にとって、現実で本物で真実がすべてなんです」

時に「真実」は非情になる。2014年のマイアミとのファイナルの第6戦、残り時間28秒で5点リードしていた時、警備員はスパーズのファンがコートに入り込まないようにロープを張り出していた。しかし、スパーズは負けてしまった。ポポヴィッチは、試合後のニュースカンファレンスでチームに何を言ったのか聞かれると、「愛していると伝えた」と答えた。

ポポヴィッチの決意

ポポヴィッチは約16キロ痩せた。彼がオリンピックでTeam USAをコーチする2020年には70歳になっている。彼は選手と同じくらい体を絞ろうと決めた。

ポポヴィッチは、トレッドミルに毎日乗り、その姿を見たブフォードはポップの事を「狂ったセルビア人」だと言った(ポポヴィッチはセルビアとクロアチアのハーフだ)。コアマッスルを鍛え、重くて厚いロープを振る。巧みに、そして決意と共に。「ここにいる半分以上の人(選手・スタッフ)よりも上手く出来るよ」彼は大口を叩いた。

2004年、ポポヴィッチはオリンピックの仕事をオファーされた。彼はラリー・ブラウンのアシスタントとしてオリンピックに参加したが、結果は銅メダルで終わった。ジェントリーは、それはポップにとって悲劇だったと語った。最悪だった。

ブフォードは、その時のオリンピックのプロセスは1972年の時と同じくらい欠陥だったと語った。「同じくらい酷かったです、いや、2004年の方が悪かったくらいですね」

ブラウンは、2004年のチームは試合に向けてたった12回くらいしか練習をしなかったと語った。

家族の死でカール・マローンが代表を辞退し、コービー・ブライアントは性的暴行事件疑惑で代表を辞退していた。そのため、若くて経験のない選手が中心になって選考された。トルコでのエキシビション・マッチで泊まっていたホテルの近くでのテロがあり、選手達は不安になった。練習する時間がなく、ケミストリーを発展させるための機会はあまりなかった。「チームをつくる時間がありませんでした」ブラウンは言った。「酷いシチュエーションに若い選手達を巻き込んでしまいました。ポップとわたしはその事についていつも話していました。彼にいつもどうやったらいいだろうと聞いていました。でも、何がいちばん悔やまれたかと言うと、それでポップのTeam USAのヘッドコーチになるチャンスを潰してしまった事です」

USAバスケットボールのトップのジェリー・コランジェロは、2008年、復活をかけてヘッドコーチにマイク・クリゼウクシを当たった。ポポヴォッチは電話でのインタビューとミーティングだけで完全にスルーされてしまった。

信念で息をし、約束は必ず守る人生を歩んできたポポヴィッチと、コランジェロのやり方が調和する事はなかった。ポポヴィッチは、ヘッドコーチを決めるプロセスについてのコランジェロのコメントにうんざりし、みんな2人の仲は決して修復しないと思うくらい悪くなった。しかし、昨年の春にコランジェロがコーチKの後任としてTeam USAのヘッドコーチの座を打診した時、ポップはそのチャンスに飛びついた。彼の愛国心は、過去の2人のわだかまりを吹き飛ばした。その間、スパーズはFAのラマーカス・アルドリッチと契約し、球団のベストレコードを叩き出し、コアな選手を中心に再起動している。

だからと言って、厳しい「真実」を突きつけられない訳ではなかった。3月19日、レギュラーシーズンで最も期待されている試合の内の1つのゴールデンステート・ウォリアーズとの一戦で、ポポヴィッチはダンカンをベンチに下げ、ボリス・ディアウを先発させた。その試合でダンカンはたった8分しかプレーしなかった。

ブフォードは言った。「ティムにとっては厳しかったでしょう。でもポップとティムは、難しい状況にあっても真摯で正直に向かい合える関係を築いてきたのです。それが、ポップが厳しくコーチする事を可能にし、彼が思った「真実」を伝える事を可能にしているのです。そして、選手たちの思っている「真実」に耳を傾けるんです」

ポップは説明する。チームのコンティニュイティーが成功の秘訣だ。オーナーのピーター・ホルト、ポポヴィッチ、ブフォードは22年間もの間、無償の愛でお互いを支え合ってきた。

ポップ:「この家族には非難という物がありません。みんなが平等に権利を有し、参加型で、それがチームに対しての決定をうまくサポートして来ました。だから決定が決して良いものにならなかったとしても耐えられるのです。なぜならそこには非難がないからです。そしてわたし達はまた前進して行くのです」

「何故かわかりませんが、多くの球団はその境地に辿り着くまでに時間をかけたがりません。わたし達はとても幸運です。わたし達はかつてないほど素晴らしいチームな訳ではありませんが、わたし達はそれが出来るカルチャーを作って持っているのです」

スパーズは、まだチームの飛行機に選手やスタッフ達の妻を乗せる事を許可している。彼らはほとんど練習しない。彼らは次のスポーツ・サイエンスを発掘している。一級の音響効果がある芸術的な練習場をつくった。コーチたちはエクセレンスを要求する。2016年のプレーオフのメンフィスとの第1戦で大勝した時も、ポップがクワイ・レナードの守備に激怒した時誰も驚かなかった。レナードが2年連続デフェンシブ・プレーヤー・オブ・ザ・イヤーを受賞する前の事だ。

クワイは:「わたしはコーチされたいのです。だからポップには感謝しています」

レギュラーシーズンは球団最多勝を記録したスパーズだったが、プレーオフのカンファレンス・セミファイナルでサンダーに破れた。スパーズをモデルチームだと思っている人にとっては危機的状況だ。なぜなら多くのNBAのオーナー達はすぐに結果を求める。ジョンソンは言った。「ポップとR.C.は電子レンジではなく、オーブンなんです。時間をかける価値があるならそれを選択します」

スパーズはこれからもプラン通りに進んでいくだろう、グレッグ・ポポヴィッチの「真実」を信じて。

-via espn

 

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