ヤニス特集 Part 1. ヤニスのギリシャ時代

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1991年にチャールズとベロニカ・アデトクンボは、ナイジェリアからギリシャのアテネに移民としてやって来た。不法移民だった。父は電気会社の雑用をし、母はベビーシッターとして働いていた。その3年後の1994年12月6日にヤニスが生まれた。

ヤニスはアテネの北西部のセポリア地区で生まれ育った。アテネで一緒に育った兄弟は兄のタナシス、弟のコスタス、アレクサスだった。家族は市民権はなく、ヤニスは18歳でパスポートを得るまでどこにも属さない人間だった。

アテネでの暮らしは毎日が貧困との戦いだった。家族6人で25平米の小さな部屋に皆で一緒に住み、ストリートでニセものの時計やバックやサングラスなどを旅行者に売っていた。

(ヨーロッパのストリートの物売りのイメージ)

 

ヤニス:「たくさんのものを売っていた。時計、ハンドバック、サングラス、キーリング、CD、DVD… 仕入れらたものなら何でも売った」

母のベロニカはベビーシッターをしていない時は、タナシスとヤニスの物売り手伝った。

ヤニス:「私はモノを売るのがうまかった。兄も同意してくれるよ。モノを売ったり人をうまく乗せたりするのは、モノ売りの中でもベストの内の1人だった。それをするのが好きだった。母と時間を過ごすのが好きだった」

「私のワークエシックは子供の時の経験から来ている。両親が毎日一生懸命に働いて食わせてくれたのを見てきた。それは信じられない程すばらしい事で、人生ずっと私の心に残っている」

 

アデトクンボ家は、安い家賃を求めて何度も引っ越しをしたが、両親は子供たちの学校が変わらないようにセポリアからは出なかった。455ドルの家賃が払えなくて退去された事もある。その上、人種差別もあり、黒人としてのギリシャでの生活は簡単なものではなかった。

ヤニス:「警察に捕まって強制退国させられるかもしれないと思うと、家を出るのが怖かった」

「20年の間、両親は不法移民だった。書類なしで20年暮らすのはとても難しいことだ。とてもとても厳しい。子供達がいて、書類なしで出かける。いつ警察に捕まって強制退国になってもおかしくはない…だから私の両親は私のヒーローだ。」

(ヤニスの家族)

 

ヤニスは子供の頃はサッカー選手になりたかった。11歳の時、父が一生懸命働いて買った小さなソニーのTVでバスケットボールのギリシャ代表がチームUSAを破る試合を観て、ギリシャ代表になろうと思った。アスリートになろうと決めた瞬間だった。バスケの試合が夢と希望を与えてくれた。

その時ヤニスがアテネの小さなアパートで観ていた試合は、2006年の8/19~9/3にかけて埼玉スーパーアリーナで開催されていたFIBAバスケットボール世界選手権の試合だった。ギリシャがアメリカを破った試合は準決勝の試合で、その時のチームUSAには、レブロン・ジェームズ、カーメロ・アンソニー、ドウェイン・ウェイド、クリス・ボッシュ、クリス・ポールらのオールスターが揃っていた。その時ギリシャは決勝でスペインに敗れ、準優勝に終わった。ちなみにチームUSAはギリシャに101-95で敗れ、大会を3位で終えた。それからチームUSAは2019年のFIBAワールドカップでフランスに破れるまで58連勝した。

(ヤニスの家族)

 

ヤニスの父はナイジェリアで少しだけプロのサッカー選手をしていて、母は走高跳の選手だった。ヤニスの父方の祖父もプロサッカー選手だった。その遺伝子のせいもあってか、兄弟は学校では卓球からバレーボールまですべての競技で1位だった。

そんなヤニス兄弟の才能を発見したのは、フィラセリティコス(EFAO Zagrafou)というアテネのディビジョン3の小さなバスケットボールクラブでコーチをしていたスピロスという人だった。たまたまセポリアに来ていたスピロスが、バスケコートで遊んでいたヤニス兄弟を見かけたのがヤニスとバスケの物語のはじまりだった。

(ヤニスのバスケの才能を発掘したスピロス・ヴァラナティス)

 

スピロスがヤニスをはじめて見た時の事について語った:「セポリアには2つのコートが隣同士になっていて、その1つでバスケをやっていた。そこでヤニスと彼の兄弟たちが追いかけっこをしていた。ヤニスが素晴らしかったのは、視野の広さとチェンジ・オブ・ディレクションだけではなかった。勝利への情熱があった。目を開いて良く見れば、足にサッカーボールや手にバスケットボールがなくても才能を見ることができる」

スピロスはヤニスの母のベロニカに会って、ヤニスたちにバスケをさせるように説得した。貧乏から抜け出すにはサッカーよりもバスケの方がチャンスがある。

その頃のギリシャでは、移民の子供がクラブに入るのがむずかしかった。子供たちは家族の生計のために働かなければならず、そのために練習に出れないし、15歳になるまでにクラブに入らなければいけない。そして、アフリカ系移民の家族の多くは子供にはバスケではなく、金を稼げるサッカーか陸上をさせていた。

若い才能が必要だったフィラセリティコスは、チャールズとベロニカにもしヤニスとタナシスが定期的に練習に来るのであれば、彼らに仕事を紹介すると約束した。

タナシスはバスケを気に入った。ギリシャ代表の試合でバスケに感銘を受けていたとはいえ、ヤニスはバスケよりもサッカーの方が好きだった。NBAプレーオフよりもチャンピオンズリーグの方が好きだった。ヤニスのお気に入りの選手は、アーセナルのストライカーのティエリ・アンリだった。そんなヤニスをタナシスが誘った。

タナシス:「弟は、”いやだ、バスケをしないでくれ、サッカーをやろう”と言っていた」

ヤニス:「私は最初はバスケに否定的だった。当時はバスケットボールではなく、家族を支えるために仕事を見つけたかった」

「私はバスケを選んではない。タナシスがバスケを選んだんだ」

スピロスはできる限りのことをしてヤニスたちを助けた。クラブがヤニスの両親に仕事を見つけられなかった時は、スピロスがクラブの従業員に掛け合って500ユーロ集めて渡してくれた。それができなかった時は、彼も裕福ではなかったが自分でヤニスの家族のためにお金を出してくれた。ヤニスにとってスピロスは2人目の父のような存在だ。

ヤニス:「私は彼のことを知らなかったし、彼の愛がどこからきたのかわからなかった…アメリカに来て一緒に暮らせればいいと思っている。彼がいなければ、私はここにいなかったかもしれない」

(ティーンエージャーのヤニスとスピロス)

 

ヤニスがバスケをはじめたのは12歳になってからだが、本格的に毎日バスケをはじめたのは15歳になってからだ。クラブでの練習は厳しく、これから走らされると思うと練習に行くまでにパニックになる時もあった。バスケは嫌いだった。

厳しくなったのはバスケだけではなく、ヤニスの生活もだった。学校で1日を過ごした後、夕方6時からクラブの練習があったからだ。弟のアレックスとコスタスを連れて毎日1時間15分くらいかけて練習場まで通った。家から最寄りのメトロの駅まで徒歩で10分、メトロで1回乗り換えをして、駅からバスで15分、バス停から徒歩5分の道のりだった。遅刻すると走らされるので、かならず1時間半前には家を出た。(*4~5マイルの距離を歩いて練習に行っていたという記事も多数あり)

練習が終わるのが遅れると、バスの終電を逃してしまっていた。そんな時は、2人の弟と暗い道でスキンヘッドにビクビクしながら家に帰っていた。たまに疲れすぎて家に帰れない時もよくあったが、そんな時はジムにマットレスを敷いて寝た。

ヤニスとタナシスはストリートでものを売るために練習を休む時があった。生活は良い時で家賃と電気代と水道代と食費でギリギリだった。1000円稼げれば良い日だった。何か食べ物が買える。お金がなかったので、ヤニスとタナシスは1足のバスケットシューズを使いまわしていた。それは「Kobe 4s」だった。

バスケの練習は年齢ごとに区切られていたため、最初は1足のバスケットシューズを使いまわすのは楽だった。まずヤニスがアンダー16の練習でシューズを最初に使い、その次にタナシスが17~18歳の練習で使った。しかし、ヤニスが成長してタナシスと一緒にプレーするようになると、同じ練習で同じシューズをシェアしなければいけなかった。

タナシス:「みんなはシューズをシェアするのは大変だと思っていたが、実際には楽しかった。ヤニスがプレーしていて相手チームを破ったら、その相手チームは自分のシューズを履いていないヤツにやられたので、彼をクレイジーなヤツだと思ってくれた」

その後、ヤニスはチームメイトたちからバスケットシューズをもらっていた。

ヤニス:「練習の後、彼らのところに行って、”それはまだ履くのか?まだ使いたいか?”と聞いていた。彼らは”カモン、ヤニス…でもいいよ”と言ってシューズをくれた。チームメイトに恵まれた。まるで私が彼らの弟のように接してくれた。私よりももっとひどい家族や子供たちは外にたくさんいた」

チームメイトたちから貰っていたシューズのサイズはもちろんヤニスのサイズではない。くれるチームメイトのサイズは小さかった時も大きかった時もある。2サイズ小さなシューズを履いていた事もあったが、大変だったのは大きなシューズを履いていた時だったそうだ。足のサイズの合っていないシューズを履いてプレーし続けたため、ヤニスのつま先はまがってしまっている。

そんなヤニスは今ではナイキで自分のシグネチャーシューズがある。シューズも全部で3000~4000足は持っているそうだ。

そしてヤニスは誇らしげに言う:「私は今日までバスケットボールシューズを買った事は一度もない」

 

ヤニスがバスケはモノになると確信したのは15歳の時だった。

ヤニス:「15歳の時、夏の練習をしていた。タナシスはすでにチームのスターだった。練習中、ドライブして来たタナシスの手からボールを叩き落とし、私は走った。タナシスが追ってきたけど、私は彼を抑えて彼の上からダンクした」

「家に帰ってすぐに父にそのことを話した。そして、私の良いところもダメなところを誰よりも知っている兄にこれを出来るのであれば、それを誰にでもできると気づいた」

ヤニスたちはインターネットカフェでNBAのユーチューブ・ハイライトを見ていた。ヤニスのお気に入りだったのは、アレン・アイヴァーソンだった。ヤニスはアイヴァーソンをまねて髪型をブレイズにしたり、クロスオーバーを練習したりした。

クラブの監督はまだ細かったヤニスをポイントガードにして、ファーストブレークでチームを率いるようにさせていた。

ヤニスはバスケに真剣だった。「このジムでプレーしているけど、NBAに入るために練習している。いつかNBAに行けると信じている。NBAに入る。そしてNBAでプレーする時は、もうその準備ができている」

(フィラセリティコスのチーム写真。ヤニスは前列左から2人目、タナシスは後列の左から2人目)

 

その頃、ヤニスをNBAに売り出してくれたエージェントのジョゴス・パヌとの出会いがあった。パヌは、2006年にヤニスがバスケに興味を持ったきっかけになったギリシャ代表のアシスタントコーチをしていた。その後、パヌはエージェントになり、フィラセリティコスのスターだったタナシスのエージェントになっていた。パヌをヤニスに紹介したのはタナシスだった。

ヤニスはパヌに会った時の事を覚えていた。ハンバーガーを食べれたからだけではない:「パヌとコーヒーを一緒に飲んだ。NBAに行きたかった。コービーがNBAにいたからだ。大金を稼ぎたかった。できると信じていた。家族を助けたかった」それでも当時はNBAは遠い夢のような話だった。NBA行きの話はヤニスよりもパヌの方が信じていたようだった。

(ヤニスとエージェントのパヌ)

 

その頃のヤニスは、リバウンドをとって、そのまま走ってリバーススピンダンクを決めれるようになっていた。ヤニスは、ギリシャに来ていたジョッシュ・スミスを見て「タンク(戦車)」のようだと感じた。自分の細い体ではとても彼らと競えるとは思えなかった。

ある時、パヌがヤニスを血液検査に連れて行ってくれた。痩せていたヤニスがもっと強い体をつくるために何を食べるべきか知るためだ。

その時のことを振り返ったパヌ:「医者のところに言って、ヤニスにいろいろな検査を受けさせた。呼吸や血液など全てだ。その夜医者が電話してきて、”あなたのおじいちゃんはエアロビクス練習や歩くのを止めた方がいい。肉をもっと食べろ。そしてアルコールもやめた方がいい”と言われた。私は、”いったい誰のことを言っているんだ?16~17歳の子供のことか?”と聞き返した」

パヌはヤニスに電話して「酒を飲んでいるのか?」と聞いた。ヤニスは「私にはミルクを買う金もないのに。どうやって酒なんて飲むんだ」と返した。

実は、ヤニスのチャートがあまりにも悪かったので、医者はヤニスのことをパヌの父のものだと勘違いしてしまったのだ。そこではじめてヤニスの肝臓が悪いことがわかった。ヤニスの肝臓はいつも酒を飲んでいる70歳の人の肝臓のようだった。

医者は何を食べればいいか教えてくれたが、何しろその食べ物がない。両親はできる限りのことをしてくれたが、食生活は厳しく家には食べ物がなかった。ヤニスだけではなく兄弟みんなが食べられなかった。毎朝何も食べずに学校に行って、帰って来て、食べ物がある時は食べて、それから練習に行かなければならなかった。夜11時に練習から帰宅してからはじめてその日の食事をする。正しい食生活は皆無だった。

学校へ行って、毎日ワークアウトして、夜11時まで食べずにいる。それがヤニスの毎日の生活だった。そんな生活をしていたら誰だって肝臓がやられる。

後にNBAのスカウトがヤニスは「痩せている」と言うようになるが、それも無理もない話だった。

パヌ:「ヤニスはフェラーリのようなものだが、ガソリンの代わりに水を入れていた」

しかも、ヤニスは兄弟が食べられないものは食べるつもりがなかった。ヤニス:「ジョゴスは私がきちんと食べていると思っていたが、そんなことはなかった。父が私に教えてくれたんだ。もし兄弟が食べなければ、私も食べない。そう育てられた」

それを知ったパヌは1ヶ月か2ヶ月に1回食事を助けてくれた。みんなが食べれてハッピーだった。バスケで月に200ユーロ稼ぐようになってからはできるだけ食べ物を買えるようにした。クラブもヤニスたちを助けた。

スピロス:「もし目の前にお腹が減ったモーツァルトがいたら、彼に何をあげなければいけないか?答えはバイオリンではなく、一斤のパンだ」

ヤニス:「今は体脂肪率が5%だとアメイジングだと言われるが、当時の私は2.6%だった」

ちなみにヤニスは今も酒を飲んでいない。

 

兄弟が食べなければ自分も食べない…このようにヤニスは意思が硬く、頑固で言い出したら誰の話も聞かず、何よりも家族との絆を大切にしていたのがわかる。ヤニスにとって家族は「すべて」だ。こんなエピソードもある。

2012年、18歳になったばかりのヤニスはスペインのクラブのサラゴサと3+1の4年契約(毎年NBAバイアウトあり)をした。契約金額は3年で約3250万円で、4年目はクラブオプションで約3250万円だった。ヤニスにすれば、そんな大金は見たことがないはずだった。しかし、ヤニスは最終的にフィラセリティコスに残ることにした。サラゴサに行かなかった理由は、家族を残して自分だけスペインに行く事ができなかったためだ。

ジョゴスたちエージェントは、サラゴサとの契約に楽観的だったようで、嫌がるヤニスに「お前はまだ若い、これで自由を手に入れられるんだ!母親なんていらないだろう」とからかったが、ヤニスは座りこんで泣いてしまったそうだ。そして、「どこへも行かない」と言って、契約書を破ってしまった。

ヤニス:「私は彼らのクルマの後ろで、”もし私が家族なしで行くと思ったら大間違いだ!”と泣きながら言っていた。母も一緒いて、私に”行きなさい”と言ってくれたけど、母が悲しんでいるのがわかった。飛躍するなら家族と一緒だ。両親と一緒に行く…金で人は変わってしまう」

すべてを失ってでも家族をとる。そういう少年だった。

他にもこんなエピソードもある。母の調子が悪く、検査のために母が入院した時があった。ヤニスは母を残して家に帰れなかったので、ずっと病院でつき添おうとした。しかし、そこは公共の病院だったので、誰も泊まることはできなかった。だからヤニスはトイレに隠れてみんなが帰るのを待ち、母がいる部屋の外にある廊下のイスで寝た。

 


2019年、最初のMVPをとったシーズンの後、ヤニスはセポリアのバスケットボールコートに帰ってきた。それも自分のナイキのシグネチャーシューズ(フリーク1)と一緒にだ!移民で貧しくて靴を買えなかった少年が、自分のシグネチャーシューズと一緒に故郷に帰ってくる… なんてすばらしいバスケの物語なんだ!

(photo by Nike)

NIKEのフリーク1のプロモーションイベント会場になったセポリアのバスケットコートには、ヤニスを一目見ようとする大勢のファンがつめかけた。ヤニスの人気は高く、ヤニス兄弟が遊んでいたセポリアのコートには今ではヤニスのミューラルが描かれている。そのコートを見下ろすバルコニーにいるファンたちが叫ぶ「MVP!」の声がコートに響いた。ほとんどが白人のファンだった。

ヤニス:「過去の自分たちと今の自分たち…信じられない旅路だ。想像をはるかに超えている」

ギリシャの移民の子供たちにとってヤニスは希望だ。パヌ:「ヤニスは彼らにとって希望の大使なんだ」

(ヤニスをひと目見ようとセポリアに集まったファンたち)

他の成功したアスリートと同じように、ヤニスも自分を育ててくれた故郷に恩返しをしている。両親はナイジェリア出身だが、ヤニスはギリシャしか知らないし、7年前までパスポートも市民権もなかったが、それでも自分のことをギリシャ人だと思っているからだ。

ヤニスは、アテネのインドアバスケットボールコートに資金を出し、自分のクラブだったフィラセリティコスの体育館のエアコンを修理したりしている。また、ヤニスはNIKEらと組んで、家族基金の「ANTETOKOUNBROS ACADEMY」を立ち上げて、自分と同じような環境におかれた子供達に、勉強やスポーツを通じてチャンスを与えようとしている。

 

また、ヤニスがパスポートを得た2年後の2015年に、ギリシャ政府はギリシャで生まれ育った子供たちが市民権を得られやすいように移民政策を変えた。ヤニスはそのことについて「彼らが法律を変えたのは、ちょっとだけ私のことも関係していると思う」と誇りに思っている。

 

その年の夏、ヤニスは弟のアレックスとフィラセリティコスの体育館で練習をしてた。そこでヤニスはボロボロのバスケットシューズを履いていた少年を見かけたので、ヤニスは彼に声をかけてバスケットシューズをあげる約束をした。ヤニスは自分の少年時代、チームメイトに靴をねだることがどれだけ大変だったか、どれだけ勇気を奮い立たせなければいけなかったかを考えていた。

ヤニス:「みんなが私のためにやってくれたことを私も彼にやっているんだ」

 

*PART 2では、ギリシャのディビジョン2のクラブの無名だったヤニスが、NBAドラフトで注目されるまでを追っていきます


参考サイト:Giannis Antetokounmpo: NBA star’s rise from ‘hustling’ on Athens street to MVP award/Woj Pod
サムネイル画像:Photo by Eirini Vourloumis for the New York Times