ヤニスはNBAドラフトのためにアトランタからニューヨークにやって来た。
ヤニスとタナシスはタイムズスクエアや街を歩いた。ホットドックを食べてコカコーラを飲んだ。ホテルではベットの上で飛び跳ねていた。ホークスからドラフトの約束をもらえていてエージェントは大金が入ると言っていた。人生で最高の瞬間だった。
エージェントのアレックス・サラトシスとはその時はじめて会った。
ヤニスは、アメリカやドラフトのことは何もしらなかった。アテネではインターネットカフェに行ってNBA選手のハイライトを見ていたくらいだ。ドラフトプロセスがどんなものかわかっていなかった。
サラトシスはヤニスにスーツは持っているかと聞くと、ヤニスはこれで行くつもりだと言った。ヤニスが着ていたのはTシャツとショーツだった。ヤニスのドラフト用のスーツを用意することになった。すぐにテイラーをホテルのスイートに呼んで、ヤニスとタナシスのスーツを仕立てた。
ヤニスは当時を思い起こして:「そこには女性がたくさんいて、ジャケットやシャツ、靴などを着せてくれた。そんなことは普通起こらない。どのジャケットにするか悩んでいたのでタナシスが選んでくれた。ドラフト・ナイトのベストドレッサーは私だった」

(ドラフト会場のニックスのファンたち)
ヤニスのギリシャでのエージェントのパヌもドラフトに来ていた。パヌはギリシャからギリシャ国旗を持って来ていた。ヤニスのドラフト指名は、ギリシャのマイノリティーや不法移民たちにとって大きなニュースだ。国の誇りだった。ドラフト直前までギリシャ国旗は忘れないようにしようと言っていたが、なんとバスに忘れてきてしまった。
ちょうど会場のMSGにギリシャ国旗を持ってきていたギリシャ人がいたので、タナシスがその人と掛け合ってギリシャ国旗をもらうことができた。
ヤニスと違ってタナシスはドラフトのことを良く知っていた。タナシスはヤニスに、名前を呼ばれたら握手をして目を合わせる。そして歴史に残る写真を撮るんだと教えた。ヤニスは指名されて家に帰ることしか考えてなかった。
ヤニス:「2人でドラフトを楽しんで、ユーモアで乗り切った」
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(ドラフトでのヤニス)
ギリシャにはたくさんの不法移民がロシア、アフリカ、アルベニアなどいろいろな国から来ていた。アテネのヤニスの家の近くにコーヒーショップがあり、みんなそこに6時間くらいいる。いわゆるコーヒーショップカルチャーだ。あるクリスマス、ヤニスはそこにクリスマスキャロルを歌いに行ったら、そこのオーナーにから「ギリシャ語で歌うな!」言われほうきで追い出されたことがあった。
ヤニスがドラフトされた時に、そのヤニスを追い出したオーナーがニュースに出て、自分がヤニスのことをケアして、彼が素晴らしい選手になれるように機会を与えたと言っていた。壁にはヤニスの写真が飾ってあった。ヤニスを遠ざけようとほうきで追い払ったのに!ヤニスはネイバーフッドの良い人たちを覚えていて、助けてくれた人のことを今でも良く覚えている。

(写真は、昔ヤニスの家の近所になったサンドウィッチ屋に飾ってあるヤニスのポートレート)
2013年はNBAコミッショナーのデヴィット・スターンにとっては引退する前の年だった。30年の間、彼は海外のマーケットを広げるために尽くしたので、ギリシャ出身のヤニスをNBAに迎えることは、彼の掲げていたグローバル・ビジョンにとっても大きな意味があった。
スターンはヤニスの名前だけ知っていた。彼はヤニスに名前を呼ぶ時に、ナイジェリア語かギリシャ語のどちらで呼べば良いのか聞いた。ヤニスはそれに答えた後、一緒に写真を撮ってもらった。
サラトシスのチームはヤニスのフィジカルをどのチームにも渡さなかった。ドラフトでは選手のケガや健康状態や骨格や筋肉の状態等も重要視される。気に入った選手がケガしあやすいのか、どんなケガをしてきたのか等は、選手がどうなっていくかの大きな判断材料になるからだ。エージェントは必須情報を巧みに使って自分の選手を行くべきチームに誘導する。ホークスとドラフトデー・ギャランティーを交わしていたサラトシスは、謎が多いヤニスを謎のままにしておきたかった。
ホークスのドラフト順位は17位と18位だった。ホークスは17位でヤニス、18位でナイキ・フープサミットで目をつけたデニス・シュルーダーを指名する計画だった。少しでもヤニスの獲得の確率をあげるためにトレードアップもしようとしたがうまくまとまらなかった。17位までにどのチームにもヤニスを指名されてはいけない。
いよいよ2013年のドラフトが幕を開ける。

(ドラフト会場のMSG)
2013年NBAドラフト
No.1:クリーヴランド・キャヴァリアーズ
キャブスにとっては10年で3度目のNo.1ピックだった。しかし、明らかなNo,1指名選手がいなかったので、どのチームもこの年のNo.1ピックにトレードアップする意思はなかった。
ニューオリンズ・ホーネッツ(正式には12~13シーズンが終わってからはペリカンズ)のティム・コネリー(現ナゲッツのGM):「誰が1位になるのかみんなの意見が割れていた。5~6人が違う選手を1位だと言っていた。ヤニスを狙っているのは10位代の2~3チームだと思っていた」
サンズのGMのライアン・マクドナー:「サンズは5位と30位の2つの指名権を持っていたので、1位のキャブスに連絡を取った。キャブスのキャップを空けるためにアロンゾ・ジーの契約を引き受けると伝えた。彼らはそのオファーを真剣に検討していると感じた。ドラフト直前に、キャブスは1位をキープすると言われた。我々は5位だったので、キャブスは誰を指名するか知りたかった。その時スターンが壇上に登り、キャブスの時間のはじまりを告げた。5分だ。その時点で、キャブスは誰を指名するかわかっていなかった。まだ話し合っている最中だと言っていた。それだけ不透明なドラフトだった」
キャブスは1位でアンソニー・ベネットを指名した。
ヤニスは、呼ばれたのが自分の名前ではなかったので、サラトシスにもうダメになったのか聞いた。サラトシスは16位までにはまだ時間がかかると言った。「思い返してみれば狂ったようなドラフトだった。ノエルが1位になると言う人も多かった。ドラフト順位が後半のチームは誰を指名するか決めていたと思うが、ロッタリーチームのドラフトは完全に流動的だった」
ホークスのGMのダニー・フェリー:「(この指名は)みんなにとって衝撃的だった。順番が狂った」
No.2:オーランド・マジック
マジックのGMのロブ・ハニガンはヤニスを気に入っていたが、ヴィクター・オラディポを指名した。
後にハニガンは、ヤニスはオールスターにはなれるかもしれないと思っていたと話している:「しかし、2位でヤニスを取る勇気はなかった」
ホークスにとっては、ヤニス獲得をもっと確実にするためにトレードアップできるかが問題だった。
No.3:ワシントン・ウィザース
オットー・ポーター Jr.
No.4:シャーロット・ボブキャッツ
コーディー・ジラー
No.5:フェニックス・サンズ
アレックス・レン
No.6:フィラデルフィア・セヴンティーシクサーズ
ナーレンズ・ノエル
No.7:サクラメント・キングス
ベン・マクレモア
No.8:デトロイト・ピストンズ
ケンタヴィアス・コールドウェル – ポープ
No.9:ミネソタ・ティンバーウルヴス
トレイ・バーク
ホークスのアシスタントGMのウェス・ウィルコックス:「10位のプレイザースがヤニスを気に入っていたが、他の誰かの方を取りそうだった。それがCJ・マコネルだ。11位はフィリーで、サラトシスはシクサーズは無事にパスできると感じていた。シクサーズは、マイケル・カーター・ウィリアムを指名した」
No.10:ポートランド・トレイルブレイザース
C.J.・マコラム
No.11:フィラデルフィア・セヴンティーシクサーズ
マイケル・カーター – ウィリアムス
12位はオクラホマシティー・サンダーだった。彼らはスティーヴン・アダムス、ヤニス、それに同じくサラトシスがレップしているデニス・シュルーダーを気に入っていた。
ある日、サラトシスにサンダーのGMのサム・プレスティから電話がかかってきて、「ヤニスのインタビューさせてくれないなら、サンダーはヤニスをドラフトした後ですぐにはNBAにつれて来ないでそのままヨーロッパに残す」と言われたことがあった。
サラトシスはプレスティに返した:「サム、それは私には問題ない。だけどその前にオファーをしてもらおうか。オファーがなければFAだからヤニスはどこへでも行ける。もしオファーをしてヨーロッパに残ったとしても、ちょっと金額は減るだろうが、それでも彼からすれば、そんな大金は今までの人生で一度も見たことがない。だからそれでも問題ない」
ヤニス:「サンダーは私を指名してスペインへ送ろうとしていた。だから指名しないでくれと祈っていた」
ホークスのGMのダニー・フェリーは、スパーズでプレスティと一緒に働いていたことがあったので、プレスティのテイストは知っている。フェリーは、プレスティはヤニスのような長くアスレチックでミステリアスなヨーロッパ選手を気にいるだろうと思っていた。
確かにプレスティはヤニスを気に入っていた。しかし、サンダーは2011年にカンファレンス・ファイナルへ進み、未来のMVPのKDとウェストブルックにマックスを払わなければならないキャップ状態だった。サラリーがふくれあがってしまうため、ジェームズ・ハーデンをトレードしなければならなかった。サンダーのようなスモールマーケットのチームに3人のマックス選手は不可能に近い。ロスターのバランスをとるために、プレスティは安いセンターを探していた。
No.12:オクラホマシティー・サンダー
スティーヴン・アダムス
No.13: ダラス・マーヴェリックス
ウィルコックスはマブスを超警戒していた。サラトシスが何度もマブスはヤニスを気に入っていると言っていたからだ。GMのドニー・ネルソンはヨーロッパ選手好きだ。アシスタントコーチにもヨーロッパ人を雇っていて、1998年にダーク・ノウィツキーを指名していた。ネルソンがドラフトであんなにもエキサイトしていたのはヤニスとルカの時だけで、ヤニスの事をDr.Jと比較しているほどだった。
しかし、マブスのオーナーのマーク・キューバンはドラフトの後のフリーエージェンシーで特大花火をぶち上げようとしていた。狙いはドワイト・ハワードだ。そのためにキャップスペースが必要だったので、トレードダウンしてキャップを空けたがっていた。
そして13位にはセルティクスがトレードアップした。
No.13: ボストン・セルティクス
ギリシャにスカウトに行っていたダニー・エインジはヤニスの凄さを見出せず、ケリー・オリニクをドラフトした。
エインジがドラフトを振り返った:「私たちみんながヤニスをスカウトした。1月ごろ彼を見たと思うが、その時よりも彼は2~3インチ背が高くなっていて10~15ポンド体重が増えていた。ヤニスは痩せていてアウトサイドゲームがなかった。成長に時間がかかるように見えた…」
いろいろな思惑がうごめく中、ラプターズもヤニスを取ろうと動いていた。
ラプターズには2013年に1stラウンドピックがなかった。2012年にGMだったブライアン・コランジェロがカイル・ラウリーとのトレードで使ったためだ。それからその指名権はサンダーに渡り、このドラフトで12位になった。GMのマサイ・ウジリは、ヤニスをとるために、12位と14位の両方のチームにトレードをかけあった。ウジリは、ヤニスがまだギリシャでプレーしていた時に、ヤニスのNBA入りを助けるためにアデトクンボ家のギリシャの市民権を取るのを助けていた。
ラプターズの2013年のドラフトのウォー・ルームの様子:
Masai Ujiri and Bobby Webster, trying to find a way to draft Giannis Antetokounmpo. It seemingly almost happened. 😳
via @Bell's Open Gym documentary, The Bubble. pic.twitter.com/ENWHb4j3vr
— TSN (@TSN_Sports) December 10, 2020
No.14 ユタ・ジャズ
シャバズ・モハメド
ヤニスの指名まであとふたつ。ウィルコックスは、なんとかなりそうだと思った。
No.15 ミルウォーキー・バックス
スターンがバックスの指名選手の名前を呼んだ。「ヤニス・アデトクンボ」
フェリー:「ひどく落ち込んだよ… 感情とエナジーとムードは破壊されたかのようだった」
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(2013年NBAドラフト)
サラトシスはバックスに電話して、ヤニスをどうするつもりなのか聞いた。バックスのGMのジョン・ハモンドは、ヤニスをキープすると言った。
ジョン・ハモンド:「私たちは(そのドラフトで誰を指名するか)何も言わなかった。それがヤニスを指名できた理由だ」
バックスは、ヤニスをインタビューしたこともなければ、ヤニスのフィジカルもなかった。
バックスのアシスタントGMのジョン・ホースト(現バックスGM):「若く情報もないヨーロッパ選手を指名したのは、ハモンドに勇気があったからだ。ドラフトでの15位はプレーオフチームを意味する。そこからチームを築いて成長していかなければいけない」
ハモンドはマジックやDr.Jを指名したつもりもなく、未来の2年連続MVPを指名したつもりもなかった。ハモンドは人生が安定している選手を取りたかった。
ハモンド:「ヤニスは不法移民で、家族も貧しく、ギリシャの経済も破綻していたので、とても安定しているとは言い難かったが、ヤニスが弟たちとどう接しているか、弟たちをどう成長させたか、弟たちがヤニスのことをどう見ているかを見て、そして、両親がそれを見守っているのを見て、ヤニスにはすぐに特別だと思わせる何かを感じた」
ヤニスがドラフトされた時のことを振り返った。
ヤニス:「名前が呼ばれる間に5分ある。その間に私たちのところにカメラがやってきたが、私にはそれは後ろにいたルーディー(ゴベアー)か自分のためなのかわからなかった。タナシスは私の腿を掴み、パヌとアレックス(サラトシス)は”来た!」と興奮していた。私は自分の名前を聞くまで何があるかわからないと自分に言い聞かせた。そして自分の名前が呼ばれ、立ち上がって、みんなとハグした。歩いている時、ゾクゾクした。階段を降りた時はすべてがスローモーションだった。その瞬間私の人生が変わったんだ。私だけではない、私の子孫の人生も変わった。息子のリーアムの人生も変わった。私は、タバコも吸わないし、酒も飲まないからわからないが、まるで雲の上にいるような感じだった。アンタッチャブルだ。ヤニスという人間に誇りを持てた瞬間のひとつだった。バスケットボールが私をここまで導いてくれた。いや、バスケットボールだけではない。母と父を助けて、兄弟の面倒を見て、放課後や深夜に自分ひとりでストリートにモノを売りに行った事もだ。当時、母は”若すぎるから行かないで”と泣いていた… そのすべての時間がここまで導いてくれた。その瞬間、ヤニスという人間をとても誇りに思えた」
10年前はアテネのストリートでサングラスやバックを売っていた不法移民の少年が、NBAに入ることをどうして想像できただろうか?
今こうしてNBAで優勝候補のチームのエースとして活躍する姿を誰が想像できただろうか?
兄弟でバスケットシューズを交代して使いまわしていた少年が、NBAにドラフトされ、2年連続MVP、そしてDOYを獲得することを誰が予想できただろうか? NBAオールスターのMVPは?
— Giannis Ugo Antetokounmpo (@Giannis_An34) September 18, 2020
そして、ヤニスはドラフトされてから7年後の2020年の秋に、自分をドラフトしてくれたミルウォーキー・バックスとNBA史上最高額の5年で約220億円のスーパーマックス契約延長を果たした。
あのお金がなくて1日1食しか食事ができなかった少年が、NBA史上最高額の契約を掴み取ったのだ!2025-26シーズンを終えた時点でのヤニスのNBAでの生涯サラリーは約336.7億円になる。
その歴史的な契約書にサインする時、ヤニスは2017年に心臓発作で54歳で亡くなった父のチャールズの遺影が入ったネックレスをしていた。
ヤニス:「自分は父のレガシーだ。父はみんなをリスペクトしていた。父には金がなかったが、愛は貧しくなかった。金ではない。家族だ。胸につけていれば、父を近くに感じることができる」
ヤニスはMVPを2年連続で受賞しても、NBA史上最高額の契約をしても、彼にとっていちばん大切なものは変わっていない ー それはファミリーだ。

(左から:サラトシス、パヌ、ヤニス、タナシス。ヤニスは父の写真が入ったネックレスをつけている)
不可能を可能にしてきたヤニスは今、バックスで優勝を目指して戦っている。
ヤニス特集 1:「ヤニスのアテネ時代」ヤニス特集 2:「ドラフトまでの大きな壁」
ヤニス特集 3:「ヤニス、アメリカヘ行く」
参考サイト:Woj Pod
サムネイル画像:Photo by Jerry Lai/USA TODAY